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以下の文にユニコードフォントを対応させようとすると落ちます。
折り返し85字、禁則有、タブ4字、タブインデント有の指定です。
3.19 で開けなくなったファイルがかなりあり、4β7 で試したところ、全く開けない
のは1ファイルのみでしたが、現時点で以下の箇所が引っかかっているところまで確
認できました。なお、トーフはルビ代わりの 1/4 角文字(0x0250〜0x02a3)になっ
ています。
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●10 大行[だいぎょう]・真実行[しんじつぎょう]
◆大行とは、第十七願に誓われた諸仏讃嘆ɥʣɰʣの+名号ʏ&
#663;ɖɤɖをいう。大行の大には大、多、勝の三義がある。すなわち
広大、多量、最勝の意味で、行の徳用ɸɟʖɖを表している。「行
巻ɞʗɖɛʣ」に大行と名づけられるわけを明かして、「もろ
もろの+善法ɬʣʍɖを摂し、もろもろの+徳本を具せり」といわれ
たのは無量の徳で多の義にあたり、「極速円満す」は勝れた用徳ʖɖɸ&
#607;で勝の義、「真如一実の功徳宝海なり」は広大無辺な+真如にかなう性徳ɧ&
#663;ɖɸɟで、大の義にあたるといえよう。◆行とは、一般に教・
行・証という場合の行は、梵語のチャリャー(caryā)の漢訳で、+菩提ʌ&
#624;ɔ、+涅槃ɽɿʣに至るための行為を意味する。『唯信鈔文意
ʖɔɧʣɧʗɖʒʣɔ』には「行」の字
に左訓ɥɟʣして「おこなふとまうすなり」といわれている。◆このよ
うに大行とは、真如にかない、無量の徳をもち、衆生ɧʕɨʗ;
8;をすみやかに涅槃に至らしめるすぐれた行業ɞʗɖɤɖ(お
こない)のことである。それゆえ「真実行」ともいわれるのである。◆「行巻」の出
体出願ɧʕɳɯɔɧʕɴɜʣの釈に、
「大行とはすなはち無碍光如来ʐɢɣɖɻʗʙɔ
の名ʏɺを称するなり」と行体を指定されている。これは『+論註ʝ
75;ɱʕɖ』(下)の起観生信ɝɛʣɧʗɖ&#
615;ʣ章の名号破満の釈によられたもので、名義ʏʗɖɞにか
なわない+自力の念仏に対して、無碍光如来の+光明ɣɖʏʗɖ
智相にかない、名義と相応している如実行であることを顕すためである。その名義で
ある光明智相とは、衆生の+無明ʐʏʗɖを破り、往生成仏の志願
を満たす力用ʚɝʖɖをもつ名号であるということで、この名号の
もつ破闇満願の力用こそ衆生を涅槃に進趣せしめる行としての徳義である。「無碍光
如来の名を称するなり」と行体を指して称名を大行であるといわれているが、称えた
はたらきによって行となるのではなく、称えられている名号に大行としての徳をもち、
この名義にかなって称えているから+称名また大行といわれる徳があると、能所不二&
#638;ɖɧʗʅɻの大行の義趣を示されたのが出体出願の釈で
ある。◆もともと、信心、称名といっても名号の活動相のほかになく、衆生は、称え
ているまま能称を忘れて無碍光如来の名義を聞き、本願招喚ɧʗɖ<
3;ʣの勅命ɱʗɟʑɔを聞信ʒʣɧʣし
ているのである。それを「称名即名号」、「信心即名号」、「称名即信心」といい、この
ように信心、称名の全体が名号大行の活動相であるというのが「行巻」の顕すところ
である。「信巻」は、この法体ʋɳɯɔ大行が衆生の上にとどいて
大信ɰɔɧʣとなり、衆生の往生成仏の正因となっていくという機
受の要義を顕すのであって、行と信は、法と機の関係にあるのである。
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